南極地域観測隊の広報として、自身の持ち味を活かし、読んでくれた人の心に残る記事を書きたい——。丹保俊哉・第65次南極地域観測隊広報隊員は、南極での4ヶ月間、広報として「観測隊ブログ」を日本へ届けることに奮闘してきました。発見、驚き、そしてちょっとした苦労話。伝えたいことは山ほどあるのに、記事にできなかったこと、書ききれなかったことばかり。当時伝えきれなかった南極の情景を、赤裸々な心理描写を交えて、振り返ります。
はじめに
私は第65次南極地域観測隊の夏隊広報として約4ヶ月間、「南極観測の今」を国内に届ける役割を担ってきました。
これまでの南極地域観測隊でも広報を担当した隊員により、それぞれの持ち味で様々な出来事が、「観測隊ブログ」として公式発信されてきた訳ですが、私も自身の持ち味、個性を活かし、読んでくれた人の心に残る記事を書きたいという思いがありました。出発前からどのような記事を書くのが良いのか思案を続けた結果、画像や映像では伝わりにくい、体感することで得られる南極の情景や雰囲気、臨場感、そして私自身の素直な気持ちや感動を、読んでくれる方自身の心に届くように私なりのユーモアや比喩表現、オノマトペを交え、読んでくれる方の脳内で情景が再生されるような記事を書くのが良いのだという考えに至った次第です。
しかしその一方で、どうしても記事の文章が冗長気味になり、元来筆まめな性格でもない私が取材した出来事を数日昼夜掛かりきりで四苦八苦しつつ、なんとかかんとか記事にするので、後で推敲が足りなかったと嘆くことがあったり、取材できなかった出来事や記事にできずじまいになったネタもあったりして帰国後も心残りがありました。
そんなときにこのウェブマガジン「極」の連載を相談いただきました。私は渡りに船とばかりこの機会をつかって「観測隊ブログplus」のような記事を書かせていただこうと思い立ったのです。是非、しばらくの間お付き合いいただければ幸いです。文調は「観測隊ブログ」と同様のままでお送りするつもりです(というかそれしか書けない)。

東オングル島の姿・形
さてそれでは最初の話題を。昭和基地が建設されている東オングル島は、長辺約2.6、短辺約1.5km、面積約3平方キロメートル、最も高い標高は43メートル(蜂の巣山)程度で、どちらかというと小島といえる規模の大きさです。初見の印象は、南極観測船「しらせ」からヘリコプターで初上陸する直前に感じた「実にのっぺりとして平たい島」というものでした。まるで定着氷という広大な白いシーツにこびりついた泥汚れか、炭火で焼かれてポコポコと膨らんだ醤油だれの煎餅のように感じたものです。こうした印象は私個人の「島」に対するイメージに影響されているからかもしれませんが、上陸して間もない頃に単独行動が許されている「Aエリア」を踏査した際、この程度の島でももうちょっと大きな地形があっても良いだろうと思ったものです。地表は片麻岩という縞模様が特徴の岩がほぼ全体に露出した「岩の島」なので、もう少し険しい地形、切立った崖や岩の峰があってゴツゴツ、デコボコとしていても良さそうです。

こうした東オングル島の平坦な地形は、氷食と呼ばれる氷河(氷床)の侵食作用の一種によって成り立ったことが分かっています。このことは島内に点在していた「迷子石(捨子石・漂石とも)」を発見して得心するに至りました。今はオングル海峡を隔てた4キロメートル先の南極氷床の末端はかつて、海峡を越えてオングル諸島をも覆っていたことがあるのです。氷食は、粗挽きのスギ板を紙ヤスリで研磨する様子と似ていて、紙やすりが氷床、スギ板が露岩に、そして研磨されスギ板からでた細かな木屑は迷子石に相当します。氷床の流動によって露岩から岩片が剥がされ、運ばれ、そして別所で氷の融解とともに残置されてしまった石が迷子石です。迷子石は残置された場所の地質とは違う岩種のことがあるので、一見してそこにあることが不思議に見える様が名前の由来になっています。


こうした氷食作用によって扁平になった東オングル島は、海氷上からの高低差が小さいので島への上陸や物資輸送が容易です。加えて広い平坦な地形は基地施設の建設に適していました。これらの特徴が長所となり、昭和基地の建設と第1次隊の越冬成功に結びついた訳ですね。
道路の姿・形
とはいえ、人が苦労なく自由に歩いて動き回れるという程ではありません。また基地内では物資の運搬のために装輪車を運用する必要もあり、インフラとして道路が整備されています。しかしながらその路面は最低限の整地に留められていて、車の乗り心地としては悪路というほかありません。轍の掘りが深く大きくなって通行に支障が生じてしまった道路の補修は、第1ダム(参照:地理院地図)などの低地に溜まった土砂(片麻岩から細かな鉱物片が剥がれ落ちてできた風化土や、氷河堆積物など)を油圧ショベルでかき集めて埋め戻します。



昭和基地には舗装道路がありません。その整備には多くの資材を日本から運び入れる必要があり、工費や工期、またなにより環境負荷が相当に及ぶため最小限の整地に抑えられています。これはやむを得ないことではありますが、不完全な道路で車両を運用するにはそれなりのリスクがあり、昭和基地は歩行者ではなく車が優先の社会になっています。このことは日本を出発する前から注意事項として隊員に周知されていましたが、徹底した交通安全ルールが採られていました。例えば歩行者は車の接近に気付いた際、できるだけ路外に避けて、また運転手とアイコンタクトをとってそれぞれの存在を認識し合うようにする、などです。ちなみに最優先者は動物で、みかけた場合は必ず無線で周知されるのでした。

こうした昭和基地の道路の有り様に私は目を引かれました。道路に関心を持った隊員はあまりいないと思いますが、しばしば観察し写真に収めていました。一体道路の何に関心を持ったのかというと、整地に苦労したであろう道路にまだ残る起伏そのものや、その起伏を縫って雪解け水が流れる様子、道路を飲み込むほどの大きな水溜まり、夏期オペレーションのため懸命に行われた除雪作業のなごり、そして壊れやすい路盤をなんとか保全しようとする工夫などでした。そこには南極の厳しい自然とその営みに抗いきれない小さな基地の縮図や道路の大切さ、それらを守る隊員の苦難がなんとなく見え隠れしているようで、そこはかとない哀愁を覚えたのでした。




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- 丹保俊哉
- 富山県立山カルデラ砂防博物館の学芸員として立山連峰の地震や火山活動などの調査をおこないながら、山地の成長とともに発達した地形の生態系や地域社会との関わりを紐説いて、立山の魅力と脅威を平易に普及啓発することに取り組んでいる。色々な地形をみてその成り立ちを妄想するのが好き。第65次南極地域観測隊広報隊員。ぼっち気質のため、南極では昭和基地よりも露岩域の方が過ごしやすかった。