南極という場所で、さまざまな「測る」人たちと出会ってきた、三浦英樹・元国立極地研究所広報室長が、それらの記憶を綴る。

2009年、国立極地研究所が東京都立川市に移転するとき、厳重に施錠された板橋*1の観測物資の倉庫から大量の水銀*2が見つかった。この水銀がいったい何のために使われていたのか、しばらく謎であった。

多くの自然科学、特に地球に関する研究では、研究する対象物の位置(緯度・経度・標高)の情報が必要不可欠となる。多数の位置データの空間的な分布がわかると地球表面の形や物質の分布がわかり、それらの時間的な変化がわかると地球表面の動きや歴史がわかる(ここには地球表面を被覆する生物や氷河・海洋・大気などの流体も含む)。

いまでは、位置の情報は、アメリカのGPS(Global Positioning System)を代表とする衛星航法システムを利用したスマートフォンでも手軽に知ることができる。しかし、かつては、地図のない場所で位置を決めることは、容易なことではなかった。初期の南極観測船「宗谷」や「ふじ」の時代、航海中は、天測(天文測量)で精確な緯度経度を決めていた。天測とは、経緯儀という器械を使用して、天体(太陽や星)の見える方向を測り、観測時の正確な時刻と合わせることで観測者の位置を逆算する測量である。

海上では水平線を使えるので天体との角度は比較的容易に測ることができる。しかし、水平線がみえない場所では、それにかわる人工的な水平面が必要となる。水銀は液体状態の温度の範囲が広い(−37〜357℃)ため、氷点下の南極でも凍結することはなく、水平面を作ることができる。倉庫で大量に見つかった水銀は、この天測のための人工的な水平面を作るために使用されたものだった(いつどこで使われたのか詳細な記録は残されていないが)。

第9次隊(1967〜1969)で行われた昭和基地から南極点までの「南極点往復旅行」における極点での天測の様子。この時の旅行で使用した雪上車(KD60)は、国立極地研究所の南極・北極科学館に展示されている。昭和基地では、1957年 2月 2〜4日に、「天測点」と名付けられた丘の上で、経緯儀を使った太陽観測が行われ、昭和甚地の緯度、経度が初めて決定された。標高はその地点と開水面との間で測定された。

南極では、第23次南極地域観測隊(1981〜1983年)の頃から、航行衛星システムのはしりであるNNSS(Navy Navigation Satellite System (米海軍航行衛星システム))が使用されるようになった。それまでは、内陸部や海氷上では、上記の天文測量と三角測量(三角形の一辺と両端の内角から新たな点の位置を求める原理に基づいた測量)を組み合わせることで位置が決められ、様々な地図が作成されていった。観測点を増やすために、重い水銀を持ち歩き、氷点下、強風下での長時間の屋外での測量と観測作業は想像を絶するものがある。こういった天測の時代から地道に作成されてきた南極大陸内陸部の氷床、氷床下の地形や海底地形を表現した基本的な地図は、国立極地研究所から発行され、以下のサイトで見ることができる。

Antarctica : East Queen Maud Land Enderby Land glaciological folio(南極の東クイーンモードランドとエンダビーランドの雪氷観測成果図集)
Bathymetric chart of Lützow-Holmbukta(リュツォ・ホルム湾海底地形図)

大陸内部や海底の地形、氷床の厚さの基本データは、大陸分裂や南極氷床の変動、現在の氷床や海流の運動やそれらの歴史といった地球科学の最先端の課題を検討するうえで欠くことができない。先人が、途方もない苦労と地道な努力によって、バトンを繋ぎながら築きあげてきたデータは、今も、新たな研究を進めていく上で大きな推進力になっている。

*1 1970年に創設された国立極地研究所は、2008年まで東京都板橋区にあった。
*2 いまでは、水銀の扱いは厳しく規制されており、このとき見つかった大量の水銀は、その後、専門業者を通じて適正に処理された。

<次回は、2024年4月30日に公開予定です>

三浦英樹(みうら・ひでき)
三浦英樹(みうら・ひでき)

1965年北海道生まれ。青森公立大学 経営経済学部 地域みらい学科教授。国立極地研究所の元広報室長。専門は地理学、地形地質学、第四紀学。最近は、青森県を中心とした東北地方の自然と人の歴史を、学生と一緒に歩いて観て考えることを楽しみにしている。