1979年と2024年の10月のオゾン全量の比較(出典:気象庁ホームページ https://www.data.jma.go.jp/env/ozonehp/link_hole_monthave.html)。

ふわふわと風にまかせてただよう風船を眺めていると子供の頃を思い出すが、観測のための気球はすこし違う。手を離れて大空に吸い込まれていくのは同じだが、飛ばすタイミングや飛ぶ高さをあらかじめ調節したり、いろいろなことを計算にいれたりと、科学的な目的をのせて空へ飛んでいく。気球を飛ばす現場と、気象観測の奥深さを綴ったエッセイ。

南極上空のオゾンの減少を世界に先駆けて発表し、のちにそれが南極オゾンホールの世界最初の報告と認められた忠鉢繁氏(第23次南極地域観測隊)は、オゾンホールのようなそれまでの概念から外れた、これまで知られていない新しい現象に出会ったとき、それを正しく認識するためには、次の3つの条件が必要だと述べている。

まず、「これはおかしい」という観測者(研究者)の直感、そして、直感を証明するための正確な観測データの蓄積、最後に、速やかな公表、 である。

ドブソン分光光度計によるオゾンの観測(第42次隊)。(提供:気象庁)

昭和基地でオゾンの観測を初めて行ったのは第5次隊(1961年)。南極観測が再開された第7次隊(1965年)からは継続して観測データを蓄積していた。上空のオゾンの観測には、地上から行うオゾン全量・反転観測と、オゾンの濃度を測る測器を気球に付けて飛揚して行うオゾンゾンデ観測の2つがある。オゾン全量・反転観測には、観測装置(第62次隊まではドブソン分光光度計、第63次隊からはブリューワー分光光度計)内に太陽光を取り込み、分光して波長毎の強度比からオゾン量を計測する方式が用いられている。昭和基地では9月から3月頃にかけては、日本の上空と同程度のオゾンがあることは第23次隊以前にも分かっていたが、観測には太陽光を取り込む必要があるため、太陽が昇らない極夜期やその前後の太陽高度角の低い4月から8月にかけての正確な観測データはなかった。

第23次隊に気象庁気象研究所から成層圏オゾンの観測を目的として参加した忠鉢氏は、これまで観測できなかった冬季も月光を用いることにより、オゾンの通年観測を計画した。その結果、これまで観測データのなかった4月から8月下旬にかけても他の季節同様のオゾンが存在することが確認できた。

月の光を捉えろ!(第45次隊)。(提供:気象庁)

昭和基地に太陽が戻り、その光もオゾンの観測ができるまでに強くなった1982年9月4日、この日は昭和基地における歴代第1位の最低気温マイナス45.3℃を記録した日でもあるが、太陽光によるオゾンの観測を再開したところ、前夜の月光観測の8割程度の観測値となった。そして同日夜の月光観測でも同様に小さな値を観測したのである。

当初は観測装置が壊れたのだと思い、点検を繰り返したが故障を示す結果は得られず、月光から太陽光に切り替えて観測を継続した。10月になると、著しい時にはこれまでより3割も小さい観測値となったが、月末になって観測値が急に増加し、9月以前と同様までに戻った。

翌年の帰国後、再計算や再チェックを行ったが計算違いや故障は見つからなかった。当時、昭和基地以外で唯一観測データを入手できた米国のアムンゼン・スコット基地の観測データと比べたところ、同基地での10月の減少や増加後の12月の観測値が昭和基地とよく一致していることを確認した。そうこうしているうちに、昭和基地で越冬中の第24次隊から、オゾンの観測値が減少したとの連絡が入った。

自分の観測結果は間違いではないと確信した忠鉢氏は、1984年9月、ギリシャで開催された国際オゾンシンポジウム(4年毎に開催)で発表した。しかし、シンポジウムでは南極のオゾンに関する発表はこの1件のみで、全く注目されることはなかった。

風向きが変わったのは、翌85年英国のジョセフ・ファーマンらが南極大陸全域の上空でオゾンが減少する”オゾンホール”を報告してからである。86年には南極オゾンに関する論文が次々と「ネイチャー」に発表され、87年に米国が実施した南極上空の大規模な航空機観測により、南極上空におけるオゾンの破壊機構が解明された。

1988年ドイツで開催された国際オゾンシンポジウムにおいて、南極でのオゾン層の破壊は完全な事実であること、そして4年前の忠鉢氏の発表が南極のオゾンの減少を報じた世界で最初の報告として紹介された。89年にはオゾン層保護のためのウィーン条約・モントリオール議定書が発効、フロン等の規制が始まったのである。

他の観測所での観測結果や次の隊の報告、過去の観測データとの比較から、忠鉢氏は、オゾンの減少は事実であると発想を飛躍させた。下の図は1979年と2024年の10月の南極上空のオゾンの分布である。衛星による観測データは忠鉢氏の観測以前から存在していたが、あまりにも低い値はエラーとしてはじかれていたのである。正しいと思ったことを公表することは、他のデータの見直しにもつながっていくのである。

1979年と2024年の10月のオゾン全量の比較(出典:気象庁HP https://www.data.jma.go.jp/env/ozonehp/link_hole_monthave.html)。

参考文献|忠鉢繁(1990)「南極オゾンホールとの出会い」、『天気』、第37巻第6号

宮本仁美(みやもと・ひとみ)
宮本仁美(みやもと・ひとみ)
国立極地研究所 南極観測センター 企画業務担当マネージャー。1979年気象庁入庁。稚内地方気象台、高層気象台、気象庁本庁、静岡気象台長等を経て、気象衛星センター所長で退職し、2020年4月より現職。昭和時代に昭和基地に入った最後の隊である第30次隊、第37次隊で越冬(気象担当)。第52次隊では副隊長兼越冬隊長を務めた。