初めて参加した第37次南極地域観測隊(1995-1996)にて。スカルブスネスのきざはし浜に滞在し海浜を3人で180m掘削。ヘリコプターのピックアップに間に合わせるために2日徹夜してスケッチした。写真中心のやや左側にある小さな赤い丸い点が、座って掘削断面をスケッチしている最中の私。地質学的な時間スケールで生じた氷床融解による荷重変化が、ゆっくり隆起した海岸地形として表現されている。(撮影:前杢英明)

南極という場所で、さまざまな「測る」人たちと出会ってきた、三浦英樹・元国立極地研究所広報室長が、それらの記憶を綴る。

初代の国立極地研究所があった板橋キャンパス(1973年創立)は、狭いながらもアットホームでまだ昭和の薫りが残る場所でもあった。その頃の職場には大学山岳部等出身のいわゆる山男がたくさんいた。2009年までの15年ほどを、若手職員として、ここで過ごした私は、伝統的な日本の極地研究の歴史や極地のフィールドワークの実際などを、勤務時間後の夜の座学?(宴席)で一家相伝のごとく、彼らから叩き込まれた。及第点には達しなかったものの、彼らや先人の過去の探検・調査譚を聞きながら、まだ見ぬ南極大陸の内陸山地や南極海の海底のフィールドワークを夢見て、自分もいつかこんなふうになりたいなという憧れを抱いたものだった。駆け出しの地理学徒としては、これ以上ないほど恵まれた環境のワクワクする職場だった。

そんな場で、時折、先輩の会話の中に ”Polarmanship” という言葉があった。「極地に関わる人々の理想とされるべき能力や精神」のようなニュアンスを感じたが、その本当の意味や由来については、特に誰にも確認することもなく時が過ぎてしまった。あのときの ”Polarmanship” とはいったい何だったのだろうか。時を経て、社会の状況も変わり、多くの人々との出会いの中で、勝手に私の中で “Polarmanship” のイメージは、次のように、次第に広がっていった。

ヒマラヤや極地で長期気象観測を実行し、中国の未踏峰・梅里雪山で消息を絶った気象学者の井上治郎(1945-1991)*1は、29才のときネパールで、「何万の理論より、私は、今、測る」*2という言葉を残し、「日本がこれから始める南極の内陸氷床ドーム頂上での観測計画(注:第36次南極地域観測隊)で、人類が新たに記録するであろう地球上の最低気温を、みずから越冬して測」ることを熱望していた*2。研究仲間が記した次の言葉には、彼の精神が読み取れる。「治郎の研究に対する姿勢は、羨ましいほど、また恐ろしいほど徹底していた。とにかく自分が経験し、見た現象のみを研究の対象とする、ということだろうか。したがって、学会でのどうこうとか、はやりというものには、全く無縁であった。その意味で、科学者として真に純粋であり、僕は今も彼の研究者としての姿勢を尊敬している。」*3 「ある面白そうなテーマが、仲間の間で取り合いになりそうになった時のことだった。僕はある感動をもって、そのときの治郎の結論を受け入れた。『誰がやってもエエやないか。要するに、わからんやったことがわかったら、それでええやないか。』こんなことをあっさりと、しかも本気で言える研究者が今、他にどれだけいるだろうか。」*3 そこから感じる “Polarmanship”には、未知の自然に対する純粋で強い探究心とロマンをもったパイオニアの精神が含まれているように思えた。

野帳一冊、折れ尺一本を携えて植生を観察・計測し、世界五大陸で論文を書いた植生地理学者の沖津進(1954-2016)*4は、ローテクノロジー・フィールドワークで、どれだけオリジナルな研究ができるか徹底的にこだわった人だった。彼の思いは、次の文章から感じ取ることができる。「生態学の分野で野外や実験室における大がかりな研究が始まり、統計学的手法など分析上のテクニックも含めて研究の「ハイテク」化が進み出した頃、(注:沖津は)『学会誌がつまらなくなった。(英文誌)の○○なんか読むところがないだろ。』とおっしゃっていた。これは本心ではなかったかも知れないけど、言わんとするところは理解できる気がした。高度な技術は発見をもたらしてくれるが、一方で技術が発想や思考を縛ることもある。物理や化学のスタイルとは違う野外科学のよさが、ハイテク化とともに失われはしないかと危惧していたように思う。」*5 ここには、フィールドワークによって的確に自然の空間現象の構造的把握を行い、それに深い洞察力を重ねることで研究を進める卓越した能力を持つ人間の矜持が読み取れる。彼の “Polarmanship”は、真にオリジナルなものを追究し、文化としての学問の香りがする優れた研究内容と表裏一体になっていたように私には感じた。

地球環境問題に深い憂いをもって、極地研究者の研究観測支援に心血を注いだ山崎哲秀(1967-2023)*6は、「地球最北の村」と呼ばれるグリーンランド北西部のシオラパルクで長い時間を過ごした犬ぞり探検家だ。彼は、犬ぞりを使って、海氷や気象の試料を集め、データを測って研究者に提供するだけでなく、北極を訪れる日本人の研究者が、安全に観測できるように、危険な海氷上や氷河上での研究活動をサポートしてきた。彼の夢は、若手研究者が、北極の自然に触れて、研究できる拠点を作ることだった*7。第46次隊のフィールドアシスタントとして越冬した山崎は、越冬交代時に私と昭和基地ですれ違った。そのとき、「南極は自然のど真ん中なのに、昭和基地の生活を送る中で、人間とは何か、社会とは何かについて、これまで以上に考えることになりました。」と語っていた。「頑丈な身体と山への造詣の深さ、良質な山男に共通な自然に対する謙虚さ」*8を体現したような“Polarmanship”を感じる人だった。

いずれも、分野を越えた広い人脈と多様な議論や交流を楽しんだ、個性のある類いまれな人たちであり、強い好奇心と情熱、使命感に突き動かされた見事な人生だと思った。

第38次隊(1996-97)に交換科学者として参加した、ニュージーランド出身のオーストラリア国立大学の大学院生(当時)。エンダビーランド、リーセル・ラルセン山での地形調査の風景。地質学、地球物理学にも深く通じた卓越した地球科学のフィールドワーカーで、エンダビーランド、リーセル・ラルセン山地域の日本人地形学者チームの調査をリードした。10年間の南極の研究経験を経て、現在は、ニュージーランド環境省の気候変動担当主席科学者で、地方自治体向けの最新の適応ガイダンスの指導、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)への同国政府の関与を主導している。 母校のニュージーランドのビクトリア大学ウエリントンでは、気候変動に関する学際的な講義「気候変動とニュージーランドの未来」、「科学、環境、技術における現代の問題」を担当している。広い視野を持って、一般市民や文系学生に自然科学の内容をわかりやすく伝えることは、地域の温暖化対策や適応策を検討する上でも大切な仕事だ。私が出会った“Polarmanship” をもつ人のひとりである。

*1 第22次南極観測越冬隊隊員(1980〜1982).
*2 上田 豊(1993)「井上治郎君の残したもの」、『追悼 井上治郎』井上治郎遺稿・追悼文集刊行委員会. P.241
*3 安成哲三(1993)「治郎を想う」、『追悼 井上治郎』井上治郎遺稿・追悼文集刊行委員会. P.231
*4 第42次南極観測夏隊隊員(2000〜2001).
*5 高岡貞夫(2016)「現代のフンボルト、逝く」、『沖津進先生 追悼文集』沖津進先生追悼シンポジウム実行委員会. P.5
*6 第46次南極観測越冬隊隊員(2004〜2006).
*7 朝日新聞(2023-12-25)「北極に消えた犬ぞり探検家・山崎哲秀さん 極地観測に尽力、志半ばで」. https://digital.asahi.com/articles/ASRDQ6X8YRDGOXIE002.html?iref=pc_ss_date_article (参照:2024-04-22)
*8 柴崎篤洋(1987)『梢の博物誌』思索社. P.171-172

<次回は、2024年6月18日に公開予定です。>

三浦英樹(みうら・ひでき)
三浦英樹(みうら・ひでき)

1965年北海道生まれ。青森公立大学 経営経済学部 地域みらい学科教授。国立極地研究所の元広報室長。専門は地理学、地形地質学、第四紀学。最近は、青森県を中心とした東北地方の自然と人の歴史を、学生と一緒に歩いて観て考えることを楽しみにしている。