ふわふわと風にまかせてただよう風船を眺めていると子供の頃を思い出すが、観測のための気球はすこし違う。手を離れて大空に吸い込まれていくのは同じだが、飛ばすタイミングや飛ぶ高さをあらかじめ調節したり、いろいろなことを計算にいれたりと、科学的な目的をのせて空へ飛んでいく。気球を飛ばす現場と、気象観測の奥深さを綴ったエッセイ。
1997年1月、夜勤を終えた後、昭和基地の居住棟にある個室で休んでいるところへ、気象庁本庁から一本の電話がかかってきた。
「帰国したら気象衛星センターだから。」
こうして、それまで全く経験したことのない気象衛星業務に携わることとなった。
日本の静止気象衛星の歴史は、1977年に打ち上げられたGMSに始まる。当時、打ち上げに成功した衛星には「宇宙に花開け」との思いを込めて花の名前が付けられることとなり、いつも地球をみつめていること、天気に関係する衛星ということで太陽をイメージさせる名前がふさわしいということから「ひまわり」と名づけられた。当初はニックネームであったが(初代ひまわりの正式名称は、静止気象衛星(GMS:Geostationary Meteorological Satellite))、2014年に打ち上げられたひまわり8号と現在運用中の9号は正式名称もHIMAWARIである。
筆者はひまわり5号後継機(1999年11月15日にH-2ロケット8号機により打ち上げられたが、メインエンジンLE-7Aの不調により、日本の宇宙開発史上初めて指令破壊された)の運用準備からひまわり9号の打ち上げまで気象衛星業務に携わったが、ここでは、予算獲得から衛星製造、打ち上げ、運用開始に至るまでトラブル続きで一番苦労したひまわり6号(運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R:Multi-functional Transport SATellite-1Replacement))の打ち上げから静止軌道に到達するまでを紹介したい。

2005年2月26日18時25分、MTSAT-1R を搭載したH-ⅡA 7号機が種子島宇宙センターから打ち上げられた。打ち上げから40分後、MTSAT-1Rはロケットから無事分離され、打ち上げは成功した。わが国の静止気象衛星としては、1995年3月18日のひまわり5号(GMS-5)以来、10年ぶりの成功である。
ロケットから分離したMTSAT-1Rは、いきなり静止軌道に位置しているわけではない。まず近地点約250km、遠地点約35,800km(静止軌道の高さ)を周回する細長い静止トランスファー軌道に乗り、遠地点に来るとエンジンをふかして徐々に高度を上げていく。その間、アンテナリフレクタや太陽電池パネルなどを次々に展開するのである。

打ち上げから10日後の3月8日、所定の静止軌道への投入が無事完了し、「ひまわり6号」と名づけられた。
現在運用中のひまわり9号は2029年で設計寿命を迎える。このため、気象庁ではひまわり後継機の準備を進めていると聞く。災害大国日本にとって、今や宇宙からの監視はなくてはならないものとなっている。次期衛星の開発と打ち上げの成功を祈って止まない。

オゾンホールの発見にしても気候変動の監視にしても、長期間に渡る均質な観測データの蓄積があってこそできるものである。気象隊員に「測候精神」*1が宿っている限り、今日も昭和基地では定刻になると白い気球が空高く舞い上がっていくだろう。
*1 測候精神:刻々と変化する自然現象を正確に捉え、長期に渡ってデータを取得・蓄積していくために、観測者として求められる科学的な対応と姿勢を示す言葉。
参考文献|石井正好(2019)「明治150年,歴史的観測資料と気候解析」、『天気』、第66巻第8号

- 宮本仁美(みやもと・ひとみ)
- 国立極地研究所 南極観測センター 企画業務担当マネージャー。1979年気象庁入庁。稚内地方気象台、高層気象台、気象庁本庁、静岡気象台長等を経て、気象衛星センター所長で退職し、2020年4月より現職。昭和時代に昭和基地に入った最後の隊である第30次隊、第37次隊で越冬(気象担当)。第52次隊では副隊長兼越冬隊長を務めた。