国立極地研究所では、ノルウェー・スバールバル諸島のニーオルスンやカナダ・エルズミア島などの高緯度の陸域で、植物や微生物の調査を長年にわたり続けています。かつては氷河に覆われていた地域でも、氷河の後退によって新たに地面が露出することで植生の分布が変化し、新種の菌類なども発見されてきました。急速に温暖化が進む北極での陸上生態系の調査や起きている変化について、内田雅己准教授に伺いました。
- 内田雅己(うちだ・まさき)
- 国立極地研究所 先端研究推進系 生物圏研究グループ 准教授。専門は、極域における微生物の有機物分解や地球の温暖化が陸上生態系に与える影響の評価など。南極地域観測隊として第51次隊に参加。北極ではノルウェー・ニーオルスンやカナダなどで調査・研究をおこなっている。
多様な生き物が暮らす北極域
ー北極のどのようなエリアで調査をおこなっているのですか?
北極圏は北極海を囲むように陸地があり、国立極地研究所では1991年からノルウェーのスバールバル諸島・ニーオルスンに基地を構えています。我々陸上の生物を研究するグループは1994年からニーオルスンで、2001年からはカナダのエルズミア島で調査をおこなっています。私たちが主に研究しているのは、高木が生えないツンドラと呼ばれる環境に生息する植物や微生物です。ニーオルスンの年平均気温はおよそマイナス3℃で、年降水量は300〜500ミリメートルほどです。調査は夏におこなうことが多く、太陽が沈まない白夜の中で活動します。
ーずっと太陽が沈まないと、不思議な感覚になりそうですね。
太陽が沈まないといっても、陽の光は一定ではないんです。1日の中でも太陽高度が変化するので、昼間は光が強いですが、夜は弱まります。慣れてくると、太陽の方角で時間がわかるようになります。また、暗くならないため、つい遅くまで野外で調査してしまいます。
ー植物はどのような場所に生えているのですか?
土壌が安定しており、水が供給されるところです。例えば、ツンドラには構造土と呼ばれる丸や多角形などの不思議な模様が地表面にできます。構造土が形成されるメカニズムは、完全には明らかになっていませんが、凍結と融解を繰り返すことで、大きな粒と小さな粒とに分かれるのではないかと考えられます。大きな石は隙間が多いため水を保持できず、小さな粒子は動きやすい。両者の中間で、石の隙間に小さな粒子がたまっているようなところであれば、土壌が安定しており、植物が安定して根を張れるのではないでしょうか。


ーどんな種類の植物が多いのですか?
北極全体では2,200種ほどの植物が知られていますが、ニーオルスンの調査地ではおよそ20種が生息しています。植物には、一年のうちに発芽して、花をつけ、種を散布し、枯れるという生活史を送る一年生植物がいますが、北極だと寒い年が一回でもくれば種を作ることができずに死滅してしまうため、一年生植物はほとんどありません。複数年生き続けることができる多年生植物が多いです。また、夏の期間が短いため、種を作る前に寒くなってしまい、種が成熟できないことがあります。そのため、葉や茎の付け根などにムカゴと呼ばれる小さな球状のものを作ったり、脱落した個体の一部から再生したりするなど、種を作らなくても個体を増やすことのできる栄養繁殖をおこなう植物が多いです。
北域の環境に適応したホッキョクヤナギなど、花が咲くような植物もあれば、コケ、そして地衣も多く生えています。維管束植物は水が不足すると枯れてしまいますが、コケや地衣は乾燥すると休眠状態となり、再び水が供給されると活動を再開できるのです。降水量が少ない地域ならではの特徴といえます。代表的な生き物としてホッキョクグマが知られていますが、植物があることでトナカイなど草食の哺乳類や鳥類、昆虫など多様な生き物が生息しています。



ー地球温暖化の影響を受けている生き物はいますか?
すべての生き物が影響を受けています。その中で、保全の観点から特に注目されているのは鳥です。鳥は北極の生態系の状態を把握する指標であるため、北極に領土を持つすべての国が保全を訴えています。ただし、鳥の生活圏は北極に限られません。冬になると南へ移動するため、地球規模の移動経路全体で保全を考える必要があるのです。


飛行機で向かう先へ
ー北極での調査には、どのようなルートで行くのですか?
まず東京からデンマークのコペンハーゲンなどを経由してノルウェーのオスロへ飛行機で向かい、そこからスバールバル諸島のロングイヤービン行きの便に乗ります。近年は北極観光が盛んになり、ロングイヤービンへの直行便も出ています。ニーオルスンは研究者だけが滞在できる特別な地域で、私たちは専用の小型機を利用して入ります。カナダの場合は、東京からオタワを経由してレゾリュートという先住民の住んでいる地域へ飛行機で行き、そこからカナダの政府機関が所有する飛行機をチャーターして現地に入ります。
ー南極観測とは異なり、すべて飛行機での移動なのですね。
そうです。飛行機ならではの問題はあったりしますが、短時間で行けることが南極観測とは大きく異なります。ニーオルスンには観測基地があり、実験室のほか個室もあります。また、食堂もあるため、食事を作る必要がなく、研究に集中できる環境です。学生も多く滞在しています。滞在期間は短い場合で10日ほど、長い場合は数か月にわたりさまざまな調査をおこないます。一方、カナダには基地がないため毎回テントを設営し、ソーラーパネルや発電機で電気を調達しながら生活します。滞在は2週間から1か月程度が多いです。カナダで大きな問題となるのは蚊の多さで、顔や腕を出していると刺されて大変なことになるため、蚊除けのネットをかぶるか、常に虫除けスプレーを塗っています。市販の虫除けスプレーではあまり効果がないため、独自にブレンドしたスプレーを使います。さらに、ニーオルスンでもカナダでもホッキョクグマに遭遇する可能性があるため、ライフルを持って行動しています。
ーニーオルスンとカナダ、2か所で調査をおこなう理由は何ですか?
ニーオルスンは海洋性の気候で、年平均気温はマイナス3〜マイナス5℃。一方、カナダは大陸性の気候で、年平均気温はマイナス15〜マイナス18℃と寒冷です。共通する植物ももちろんありますが、植生は異なります。1か所だけを調べて北極ツンドラの生態系を理解することは難しいため、異なる環境を持つ2か所で比較することが重要なのです。


小さな植物たちを調べる
ー調査の方法を教えてください。
氷河のすぐ近くには植物がほとんど見られませんが、氷河が後退して時間が経過した場所には植物が侵入しています。氷河の上には多くの微生物が存在することもわかってきました。かつては「どこに・どのような植物が生息しているか」を中心に調査をおこなっていましたが、近年は「その植物がどのように活動しているか」や「植物や微生物の多様性のしくみ」にも焦点を当てています。私たちは主に炭素循環をテーマに、植物や地衣類のほか、土壌微生物の集合体である土壌クラスト(Biological Soil Crust: BSC)を対象としています。植物については、光合成によってどれくらい二酸化炭素(CO2)を吸収しているかを測定します。ただし葉がとても小さいため、工夫しなければ測定が難しいこともあります。また、土壌微生物は呼吸をしているため、土壌から放出されるCO2を測定したりもしています。

ーどのようなことがわかるのですか?
ツンドラ生態系の炭素の動きがわかります。例えば、キョクチヤナギとコケが存在していたとします。野外でCO2の吸収を測定していたところ、晴れている日よりも光の弱い雨の日のほうがCO2の吸収速度が大きくなりました。何故このような現象が起きるのかを明らかにするためには、それぞれの植物における光合成の特徴を知る必要があります。晴れの日は、コケは乾燥して休眠してしまうため、光合成はキョクチヤナギのみとなります。しかし、雨が降るとキョクチヤナギに加えて、乾燥していたコケが光合成を再開するため、光の強さは弱いにもかかわらず、生態系全体ではCO2の吸収速度は大きくなります。さらに近年、コケや地衣類と異なり、土壌クラスト(BSC)の光合成は、気温が低いほどCO2の吸収が活発化されることもわかってきました。BSCは雪がとけると乾燥状態が続くため、雪どけ水を利用する際に光合成活性を最大化するようになっていると推察されます。また、地球温暖化が北極陸域の炭素循環や生物の多様性に与える影響についても徐々に明らかになってきています。

ーすべて極地で解析するのですか?
現場の環境データを測定する際は現地でおこないますが、微生物については日本に持ち帰り、遺伝子や形態を調べます。植物に関しては、日本で北極の環境を再現することが難しいことや、飛行機とはいえ、ストレスを与えずに持ち帰るのが難しいため、ほとんどの実験は現地でおこないます。正直にいえば、一年中滞在してモニタリングや測定をしたいのですが、限られた期間で測定できるデータを取り、日本でその解析を進めています。






極地に行かなければ見えないこと
ー北極での研究の面白さはどのような点にありますか?
研究者同士の垣根が低く、国を超えて共同研究に発展しやすいところです。今もカナダやドイツの研究者との共同研究が進んでいますし、今年からオランダの鳥の研究者と土壌微生物を研究している日本の学生の間で共同研究の話が進んでいます。これは北極ならではの特徴だと思います。
ーもともと植物の研究を志していたのですか?
学生時代、カナダの北方林で微生物の分解を研究していた際に、広島大の先生から「北極に行ってみないか」と声をかけていただきました。実際に行ってみると、北極について研究している人が少なく、微生物だけでなく植物も調べるようにとアドバイスされたのです。
ー極地研の研究者の中でも、北極にかなりの回数行かれていますよね?
北極に行くと「なるほどこんなものか」と理解しますよね。でもまた次に行くと、全く違っているのです。雪どけ時期もそうですし、それに影響されて生き物も変わってきます。一度調べてこれでわかったとはならない。2回目に行った時にそう感じたのです。最初はニーオルスンで研究をしていたのですが、カナダで調査すると、北極の地域ごとに異なることがわかりました。とにかく現場に行かなければわからないことが多いのです。最近はリモート調査をおこなう研究者も増えていますが、私はできる限り現地に行きたいと思っています。できればずっと北極に居続けたいですね。



写真:国立極地研究所、取材・原稿:服部円