想像もしなかった光景を目にすること、その場に身を置いて感じることが潜水調査の醍醐味である。南極海氷下の潜水調査のパイオニア、渡邉研太郎名誉教授が記す、南極の海の潜り方。
南極・昭和基地の周りの海はほとんど一年中凍りつき、陸上にも花の咲く植物は無く、ごく限られた場所にコケや地衣類がわずかに見られるのみで白一面の世界が広がっている。海洋生物を研究するといっても厚さ1メートル以上もある海氷(海水が凍った氷)に穴を開けなければ始められず、すぐに凍り始める。先輩方はそのような穴から採水器を下ろして海水を汲み、プランクトンネットやカゴ網、採泥器などで海中や海底の生物を採取し、観測装置を下ろして水温などを測って研究を進めてきた。まさに針の穴から海で生活している生物の社会やその生活環境をのぞいて、全体像を描こうとしているような状況だった。
1981年1月15日、日本の南極観測隊としては13年ぶり、2回目の潜水調査が昭和基地沿岸の3か所で始まった。この1年半ほど前、私はご縁があって国立極地研究所の助手に採用された。大学院で浜名湖の赤潮をテーマに調査研究を進めていたが、就職を機に昭和基地周辺の海氷の中で増える微細な藻類、アイスアルジー(ice algae)へ研究対象をシフトし、潜水調査による基地周辺の海洋生物相を把握する計画に、スキューバ潜水の経験者であることから参加することになった。第22次南極地域観測隊の夏隊の一員として、昭和基地に来ることができたのだった。さまざまな幸運が連鎖して南極の海に潜れる機会を得ることができ、自分は何というラッキーな人間だと、先輩の先生方に感謝しかない。
最初の潜水調査は検潮所がある西の浦で、岸から10メートルほどまで海氷が融けた砂浜を、タンクを背負ってドライスーツを着た2名のダイバーが採集用具、水中カメラなどを持って沖に向かっていった(南極資料75、1982)。
砂地の海底は、一般的な日本沿岸での傾斜より急で、水深10メートルほどまでは植物プランクトンが増えて緑色に濁り、視程は5メートルもないほどだった。潜水地点の海に向かって右手には岸から沖に向かって氷が海底まで張り付き、その氷壁前にはナンキョクツキヒガイ(Adamussium colbecki)がうっすら砂をかぶって密集していた。この二枚貝はそれまで海底に下ろしたカゴ網で採集されたことはあったが、このように密集して分布する場所があるとは想像されてはいなかった。
海洋生物の研究者にはスキューバ潜水で仕事をしている仲間がいるものの、潜水によりその生物が生活している場がどのようなものか、実際に研究者がその場に身を置いて感じ、考えながら調査・研究結果を考察できることが望ましいと、個人的に考えている。この二枚貝もこんな高密度で殻にうっすらと砂を乗せ、大きな貝の上に小さな貝が乗っている状況を目の当たりにすると、いろいろな生活環境や暮らし方が頭に思い浮かんでくる。陸上生物の研究者が山野に入って対象生物の生息環境を見、どの様に他の生物と関わっていそうか、野外調査で得られる知見を潜水によって海洋生物学者も得ることができる。想像もしなかったこのような光景を自分の目で観て記録して、新たな知見を加えることができるのは潜水調査の醍醐味だ。
また、このような調査はダイバーだけでは不可能だ。まず潜水用の穴をチェーンソーやアイスドリルで開ける作業、現場へ重たい潜水調査機材を運び、ドライスーツや空気タンクの着脱をサポートし、氷上でダイバーの命綱を支持して万一の際には氷上まで引き上げる者、採集したサンプルを基地の実験室へ壊れぬように運んだり、潜水機材の塩抜き等等と、観測隊の医師にも加わってもらったチームで訓練も重ねて初めて実行可能になる。その後も南極観測隊に何度か参加したが、それぞれのプロジェクトで野外調査を行おうとすれば、少人数の個人プレーではとても無理だ。作業を分担して意思疎通を密にし、それぞれ専門的な経験や技能を備えてメンバーを集約したチームが必要となる。機材が低温で凍ったトラブルや、肉体的に厳しい中で全て順調に運べたわけではなかったが、メンバーに恵まれ、第22次夏隊でのこの経験は私にとってその後の調査・オペレーションを立案・実行する上で貴重な出発点となった。
- 渡邉研太郎(わたなべ・けんたろう)
- 1952年会津若松市生まれ。国立極地研究所名誉教授、日本極地研究振興会常務理事兼事務局長。専門は海洋生態学で学位論文は、昭和基地周辺のアイスアルジーの生態学的研究。南極観測隊には22〜54次の間越冬4回、夏隊3回。その他南極条約の査察(2010)、外国隊計3回参加。南極条約協議国会議、南極海洋生物資源保存委員会に日本代表団員として長年出席。