昭和基地周辺の一年中凍っている海氷に穴を開ける作業は大仕事だ。

想像もしなかった光景を目にすること、その場に身を置いて感じることが潜水調査の醍醐味である。南極海氷下の潜水調査のパイオニア、渡邉研太郎名誉教授が記す、南極の海の潜り方。

日本の南極地域観測隊で最初に潜水調査をしたのは、9次隊の夏隊生物部門の福井義夫隊員と越冬隊医学部門の大久保嘉明隊員だった(南極資料32, 1968)。南極観測船「ふじ」の支援の下、ラングホブデの水くぐり浦にあるペンギン営巣地の沖合で1968年の2月2日、スキューバ潜水と素潜り(!!)により底生生物を採取したほか16ミリ映像、35ミリ画像により記録を行ったと報告されている。それによれば、潜水にはウェットスーツを二重に着て、手には3ミリの厚さのミトンをはめ、特製の防水ケースに入れた16ミリ映写機を使うなどしたが、低温による機材のトラブルも発生し、潜水、撮影機材の発達した現在からは想像できない程の困難があったようだ。

我々22次夏隊では東京水産大学の中嶋泰隊員と私とが、21次越冬隊の生物担当の内藤靖彦先生と共に3名のダイバーが両隊次の隊員の支援を受けて昭和基地からアクセスの良い3か所で潜水調査を行い、大型のガラスカイメンを含む約200点の生物サンプルや8ミリ映像、35ミリ画像の記録を得た。この南極での潜水調査の準備として、結氷期のサロマ湖での潜水訓練、小湊の臨海実験所やプールでの調査用具や方法などを確認する訓練のほか、米海軍の潜水マニュアルなど文献調査により安全対策を立てた。また、医師を含む支援チームは、潜水調査時にドライスーツやタンクの着脱 を手伝ったり、氷上で命綱を支えたり、採集したサンプルを受け取ったり等の役割を果たすために、十分な訓練を経たうえで現場に臨んだ。ドライスーツの浮力を打ち消す鉛のウェイトを16キログラム装着して1月後半に計15回実施したので、腰にはかなり辛かった。その後筆者は24次越冬、35次越冬でも生物担当隊員と共に潜水調査を実施する幸運を得た。

22次隊で北の瀬戸の海底から採取したガラスカイメンと中嶋隊員。

今になって思い返すと、海洋ドキュメンタリー映画、「太陽のとどかぬ世界」を中学生の頃観たのがきっかけとなって人生のコースが方向づけられたように思う。この映画はフランス人海洋学者でスキューバを発明したジャック=イヴ・クストーが作ったもので、その後同じ人物の著書「沈黙の世界」を読むにつれ、自分の中で海のイメージがどんどん変わっていった。それまでは海のごく表層しか見えていなかったのが、スキューバで三次元の海を自分の目で見、体感できるのだと。陸上の林や森に動植物が多様な関係性を持って生態系を作っているのと同様に、海の生態系に触れ、感じることができるツールが身近に存在することがわかってからは、そちらの世界へ引き寄せられていった。

大学では「海洋調査探検部」に入り、合宿で日本各地の海に潜り浸っていた。当時のクラブには先輩たちが苦労して手に入れたスキューバ器具は3組しかなく、使えるのは上級生だけだった。入部して2年余りは素潜りばかりだったので15m位は潜れるようになり、ニコン社の水中カメラ「ニコノス」とフラッシュ装置で水中写真を撮っては、手製のゴム動力のモリで魚を突いて夕食のおかずをとる合宿の日々だった。合宿では、北は海藻の森が深い飛島や佐渡から伊豆や伊豆諸島の海、四国や九州のソフトコーラルの海、南は石垣島や宮古島、鳩間島などの造礁サンゴの海と、キャンプをしながらいろいろな海に潜っていたが、まさか南極の海で潜れるとは夢にも思わず、こんな幸運があり得ることに自分でも驚いた。

海氷下潜水には当然のことながら海氷への穴開け作業が必要だが、これが大仕事だ。昭和基地周辺はほとんど一年中海が凍っている。ただし夏期は日射により海氷の表面が融けてパドルという水溜りのようなものがあちこちにできたり、海氷下面や内部も融け、氷がなくなって青黒い海が顔を出すところもある。氷がなくなった場所では1年のうちに海氷が厚さ1メートル〜1.5メートルほど成長するので、多くの場合1メートル以上の厚さの氷に潜水用の穴を開けねばならない。下の図にあるように、初めはエンジン付きのアイスドリルで4辺を掘り、長い柄の付いた氷ノミ(アイスチゼル)で残った底部の氷を突き破り、浮いた氷をチェーンソーなどで小さくして取り除く作業になる。1メートル程度の氷厚であれば、1メートル余の長さのガイドバーの付いたチェーンソーで氷の底面まで届くので比較的早く開けられるが、その分重いので腰を痛めないよう作業のコツを習得する必要がある。

アイスドリルで海氷に穴を開け(左)、一部重ねながら4辺を掘り(中央)、アイスチゼルで海氷の底部を切り離し、中央部に浮いている海氷のブロックを除去(右)して海氷への穴開けが完了する。その後も採水やプランクトン採集用の観測定点の穴を維持するため、表面から凍結した海氷を除去し続けた。

潜水のための穴は1か所しか開けなかったので、安全対策としてダイバーには命綱を付けて万一の場合は引き上げられるようにしたほか、採集物の受渡しの効率化も兼ねて水中無線通話装置を利用した。また、低温下での潜水なので、機材の凍結を避けるために低温に強い機材を選び、特にレギュレーター(タンク内の高圧空気を潜水深度に合わせて減圧する装置)の凍結による故障を避けるため、潜水するまではダンクをなるべく低温に晒(さら)さないよう、また潜水前にタンクの空気を吸ってレギュレーターの減圧部の温度を下げないよう気を付けた。それでも次回で述べるように、極夜期に氷下で作業中、レギュレーターの凍結によるトラブルが発生した。

第24次越冬中の1983年12月9日、北の瀬戸検潮小屋沖合の潜水定点の筆者。オクトパスレギュレーターを装備し、水中無線通話装置のマイクユニットをレギュレーターと口の間に装着。緑色のザイルを命綱とし、単管パイプで組んだハシゴを使って開口部から海中へ入出した。
渡邉研太郎(わたなべ・けんたろう)
渡邉研太郎(わたなべ・けんたろう)
1952年会津若松市生まれ。国立極地研究所名誉教授、日本極地研究振興会常務理事兼事務局長。専門は海洋生態学で学位論文は、昭和基地周辺のアイスアルジーの生態学的研究。南極観測隊には22〜54次の間越冬4回、夏隊3回。その他南極条約の査察(2010)、外国隊計3回参加。南極条約協議国会議、南極海洋生物資源保存委員会に日本代表団員として長年出席。